数日ぶりの更新です。
今日も暑かった~!
名古屋と岐阜から来てくれたライター仲間と緑の村公園でBBQ。
そのあと、島津塚、西高木家陣屋跡、多良峡にお連れしましたが、多良峡の清流がことのほか気に入ってもらったようで、しばし、静かな時間を過ごしました。
さて、先日、ご紹介しました関ケ原戦跡踏破隊の記事ですが、踏破隊に参加されたお子さんの親さんにも読んでいただけたようで、とっても嬉しいコメントをいただきました。
私がご紹介できるのは踏破隊のみなさんのほんの一部の行程に過ぎないのですが、喜んでいただけて嬉しいです。踏破隊の皆さん、来年もお待ちしていますよ。
さて、先日もご紹介したように、福島からやってきた子どもたちを送って福島に行って来ました。新幹線から降りるときは、みんなと別れがたくて泣いている子もいましたが、駅に着いたら親さんが迎えにきておられ、みんな元気に帰って行きました。
実は福島県は多良とは不思議なご縁があります。
高木家入郷前に多良の地を治めていた関一政が移封されたところが福島県白河市の小峰城だったのです。会津の蒲生氏郷についての入郷でした。
白河には行けませんでしたが、今年は二本松市に行って来ました。
二本松にも城跡があり、その城壁はとても立派。
石垣の残る城という事で、高木家の整備にも通じるところがあるのではないかと感じました。
ただ大変広くて、高低差がすごい。
平城ではなく、りっぱな山城でした。でも、本丸からの景観はすばらしかったです。
では、写真をどうぞ。
まずは二本松市の庁舎で観光パンフレットをゲット。
二本松城跡にある高村智恵子の家にあった藤の木。
高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子の生家があるのが二本松だったんです。
城跡から見える安達太良山。
曇ってしまって、残念ながらほとんど見えず・・
智恵子抄の詩碑
あちこちに残る巨大な石垣
本丸です。
下の細かい石の部分が城跡に残る最古の石垣
穴太(あのう)積みと呼ばれる
蒲生の治めていた近江から石垣づくりに長けた穴太衆を呼び寄せたらしい
智恵子の生家。
昭和4年に生家の酒屋がつぶれたことが、繊細な智恵子の精神にかなりのショックを与えたよう
隣りの記念館には現存する数少ない智恵子の油絵やデッサンのほか、切り絵のレプリカも展示されていました。
帰りの岐阜羽島駅はまっかな夕焼けでした。
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