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2015年8月23日日曜日

枡屋伊兵衛顕彰祭で児童文学作家の角田茉瑳子さんが講演

こんにちは。
今日は三本のブログを更新しますよ。
その第二弾です。

昨日、松ノ木の本堂寺で「枡屋伊兵衛顕彰祭」が行われました。
枡屋伊兵衛は東高木家の家臣で江戸詰でしたが、宝暦治水の際に人柱となって、水神の怒りを鎮めたと伝えられています。本堂寺には枡屋伊兵衛の顕彰碑があり、毎年この時期に県議会議員さんや副知事さん、市議会議員さん、関係地域の首長さん、鹿児島県からは宮崎市長や、先日多良にも踏破隊で訪れてくれた日置市の市長さん、大垣市長さんなどを招いて法要が勤められています。
これには多良小学校の6年生のみんなと、引率として校長先生たちも出席されております。

私も毎年ご案内をいただくので、お役目としておまいりさせていただいておりますが、今年は法要の前に児童文学作家の角田茉瑳子さんの講演がありました。
角田さんは枡屋伊兵衛についてとてもよく調べられており、伊兵衛が実在したということをいろいろな資料から証明され、当時の薩摩藩の侍たちがいかに過酷な状況下におかれ、伊兵衛やその主であった東高木家当主の高木内膳たちが、幕府と薩摩藩の板挟みになって苦しんだかということがよくわかりました。

実は私の祖母は、現在の海津市平田町今尾の出身でして、子供のころから宝暦治水にかかわる言い伝えをよく聞かされたので、関心がありました。
平田町という町名が、宝暦治水の薩摩方の責任者で平田靭負の苗字からとったということは有名な話です。

江戸幕府の薩摩いじめはすさまじいもので、専門の土木業者ではなく、しろうとの村むらに請け負わせ、滞在中の藩士の生活にまで厳しいしきたりを決め、その衛生状態もひどいものだったため、あまりのしうちに義憤のために切腹した藩士も多かったのですが、疫病で亡くなった藩士も多かったそうです。平田靭負自身も工事終了後、責任をとり、切腹します。おそらく、国を出るときから、その覚悟はしていたのかもしれません。

中でも今回のお話で感動したのは、これほどの難工事であったにもかかわらず、工事後の大雨でせっかく作った洗堰もすべて決壊。その後、村人たちは工事で得た賃金をすべて出し合って、専門業者を雇って堰を作ったということ。この堰は明治時代にお雇い外国人のヨハネス・デ・レーケが来て工事をするまで、決壊することはなかったといいます。

角田先生もおっしゃっていましたが、命をなげうって縁もゆかりもない自分たちのために河川工事をしてくれた薩摩藩士たちの恩に報いるために、お百姓たちが立ち上がったのでしょう。

時間が30分ほどと短く、子供たちにはちょっと難しい話だったかもしれませんが、個人的にはもう少し詳しく聞きたかったです。

 講演される角田先生


挨拶される宮崎市長代理の方


                 日置市佐土原支所長さん
                島津豊久は佐土原の城主でした。



               この日、祭文を読んだ多良小学校6年生の
               三輪恵土(けいと)君と三輪あゆみさん。
                大きな声ではっきりと読めました。

ほかの多良小学校の子たちもとてもお行儀よく、最後まで熱心に聞いていました。

関係者の皆さま、お疲れさまでした。




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