こんにちは。
牧野富太郎博士、まさにらんまんですね。
うちにも牧野博士の日本植物図鑑があります。
父が好きだったとみえてぼろぼろになっていますが、巻頭に博士の87歳当時の写真が掲載されています。
牧野博士の植物図鑑、北隆館という出版社から今も発刊されています。
父の図鑑は昭和15年に発刊されており、今までに何刷も重ねていることがよくわかります。
ところで牧野博士が生まれる以前、江戸時代の日本には植物学というものは存在しなかったと考えられます。あったのは本草学。つまり薬草についての学問でした。それは医学と結びついて多くの人々によって研究されていました。貝原益軒や小野蘭山、岩崎灌園らがすぐれた研究を残しています。これらの図鑑については国会図書館のデジタルコレクションで無料で見ることができるものもありますので、興味のある方はご覧ください。
江戸末期になって長崎の出島を通じて多くの外国人が来日します。
有名なシーボルトもその一人です。
彼はドイツ人でしたが、外見から見たらオランダ人だかほかの国の人間だかわかりはしません。ですからオランダ語さえ話せれば問題ないのでした。こういう状態でしたから、江戸時代の日本は鎖国ではなかったという学説もあるようです。
それはさておき・・
彼らが来日したことで、蘭学(ヨーロッパの学問)が日本にも入ってきました。そして有名なリンネの植物学も日本に紹介されたのです。植物学という植物だけを純粋に研究するという概念は日本にはない斬新なものでした。
当時、尾張や美濃の医者を中心として植物を研究するグループがありました。これは医師として薬草を研究することが主でしたが、彼らの中から伊藤圭介という人物が出てきます。伊藤圭介は後に上京して日本で初めての理学博士になった人物。伊藤圭介は直接シーボルトから教えを受け、初めて日本にリンネの植物分類学を紹介しました。
彼より少し先んじて、美濃には飯沼慾斎(いいぬま よくさい)という人物がいました。彼は伊勢の出身でしたが学問で身を立てることを志し、親戚のいた大垣に来て医者になりました。しかも途中で上京して蘭学を学び、漢方医から蘭方医になったのです。慾斎の医院はとても繁盛したようです。
慾斎は50歳で引退して60歳を過ぎた頃から植物の研究に傾倒し始めます。そして伊藤圭介らと交流するうち、リンネの植物学を学び、自ら「草木図説」という植物図鑑を作成します。これはリンネの植物分類法を用いて日本の植物を分類した日本初の図鑑です。
牧野富太郎は後に慾斎の「草木図説」の増訂版を出版するのですが、その前に大垣にあった慾斎の別荘を訪れています。長松にあった平林荘です。平林荘には慾斎が各地で採集した植物数百種類が植えられていたそうです。
慾斎の採集地のベスト3は伊吹山・白山・菰野だったようです。
牧野富太郎博士も伊吹山には7回来ており、現地の山を案内してくれる高橋七蔵さんと仲良くなり、伊吹山をあちこち案内してもらったようです。高橋七蔵さんは後に対山館という宿泊施設を伊吹山に建て、伊吹山観光のハシリになりました。
さて、慾斎は実は多良の高木家と懇意にしていました。
名古屋大学附属図書館が2008年に出された「濃尾の医術」という書があります。尾張徳川家奥医師の野間家の文書を中心にという副題がついていますが、この中にその親密な様子が書かれています。
慾斎の採集地の一つに多良山というのが出てきますが、なぜ慾斎が多良に来たのかというのがずっと疑問でした。それがこの資料によってわかったのです。おそらく懇意にしていた(西)高木家の家人にでも多良の山を案内してもらって植物採集をしたものと思われます。
慾斎が多良の山で採集した植物は玉川ホトトギスという植物です。
これは国会図書館デジタルコレクションで確認することができ、今日発刊された「HARINCO」にも図として掲載しました。
それがこちらです。右ページの詞書に「吾郷多良山中ニハ~」と書かれており、慾斎にとって多良は故郷に等しいとても愛着のある場所だったのがわかります。多良の山のどこで採取したかまではわかりません。でも、当時の多良の山はそれほど植物の豊かな山であったことがよくわかります。
慾斎が採集する以前に名前はついていたと思われるため、古くから日本に自生していた固有種であったと考えられます。
「草木図説」は本草学と植物学のまさにハイブリッド。
その中に多良の名前が出てくることを忘れないでほしいと思います。