このうちのほとんどが今はもう主も亡く、後継者も地元にいないため、お店は閉じられてしまいました。仕方のないこととはいえ、これでは町も寂しくなるばかりです。
でも、今日はひょんなことからとても心打たれるお話を聞くことができました。
先日、連合自治会の定例会で、「多良音頭」を披露。8月14日の盆踊りまでに振り写しをするため、「多良音頭」を知っておられそうな方々にお声掛けをしているのですが・・
元「美濃屋」のさっちゃん(三輪幸子さん 同級生のおかあさんです)が、音頭を復活して下さった大塚京子さんとも親しく、三味線を弾いておられたというのを聞き、アポイントメントもありませんでしたが、ご自宅にうかがって振り写しに出てきていただけないかとお願いに行ったのです。
「美濃屋」はバス通りに面しており、昔ながらの商家の面影を残している大きなお店でした。呉服屋洋服、衣料品などを扱っていたように思います。通りの向こうには「川地屋」がありました。今は「美濃屋」はたたまれましたが、西回り線の所に「三輪製形」さんとして営業しておられます。
数十年ぶりに見るさっちゃんは大変お元気で、すばらしいのどを披露してくださいました。残念ながら三味線は今はもうやめられてしまったとのことでしたが、振り写しには参加していただけるとのことでした。
さっちゃんの娘さんで長女の一佐衣さんは同級生、小学生のころはよく帰りに寄らせてもらって、時にはずうずうしくお水など飲ませてもらうこともありました。若くてきれいなさっちゃんは、私の憧れのおかあさんでもありました。
懐かしさから、ついつい、話は昔の思い出話に・・突然訪れた私を、さっちゃんは座敷に上げて下さり、とても貴重なものを見せてくださいました。それがこれです。
ちょっと写真が暗くて見えにくいかとは思いますが、上の写真はさっちゃんと「美濃屋」の初代であるさっちゃんのひいおじいさんが残された法被。
兼次郎という名前であったため、屋号を「カネカ」と言ったそうです。
法被の上にかけられている天秤棒は、その昔、ひいおじいさんがこれを肩にのせて伊勢の方まで行商に行かれたときのものだそう。
さっちゃんが子どものころは3人ぐらい伊勢から来た番頭さんがいたそうです。
「美濃屋」の初代兼次郎さんは若いころに大変苦労され、
さっちゃんは「この天秤棒はうちの家宝だ」とおっしゃってました。
下の紙は当時の広告。
上石津郡多良村、養老郡多良村とあることから、途中で行政区域が変わったことがわかります。
ちなみに
1896年(明治29年)4月18日 - 郡制に基づき、上石津郡と多芸郡の一部が合併し、養老郡になる。(ウィキペディアより)
だそうなので、時代はおわかりいただけるかと思います。
それにしてもなんとすばらしい広告でしょう。
当時すでにこんな粋な広告を作る人がいたんですね。
思いがけない多良の文化の一端に触れることができた思いです。
さっちゃん、すてきなひとときをありがとうございました。
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