今日は球技大会でくったくたのなずなです。
でも、体育推進員の皆さんも社会体育委員さんも、自治会長さんがたもご協力いただき、とても楽しい球技大会でした。
反省会兼焼肉もおいしかった♫
写真の整理が終わり次第、アップしたいと思います。
さて、では先に先日行われた公民館の歴史講座「上石津の歴史をたずねて」をご紹介したいと思います。
今年は4回にわたって行われます。
トップバッターは6月19日の金森雅之先生。
タイトルは「多良城と高木陣屋」でした。
まず、多良という名前の由来に始まり、
多良城はどこにあったかというお話があり、
とても興味深いお話でした。
多良はもともと多羅と書いていたのを、羅の字がよくないということで、
多良にしたのではないかということでした。
また、たらという地名は
金森先生の説によれば
たたら製鉄からきたのではないかということでした。
昔、畑で仕事をしていると、たたらで出た金糞がよく出たと、
亡くなった大嶽文夫さんがいわれたことがあるそうです。
また江戸時代の地図には何カ所か鉄の鉱山と思われる場所があったことから
そのように考えられるのでは?というお話でした。
そして、もっとも興味深いのが
多良城は高木家入郷以前から存在しており、
それは今の旗本西高木家陣屋跡に建っていて、そこで明智光秀が生まれたのではないかというお話です。
明智光秀といえば、いちばんポピュラーな伝承は
江戸時代、徳川家三代に使え、江戸の基礎を築いたという南光坊天海説でしょう。
ですが、金森先生によれば、東京大学の史料編纂所が所有する「明智一族宮城家相伝系図書」には、
なんと!
明智光秀について
亨禄元年戊子(1528)八月一七日、石津郡多羅(多良)にて生
と書かれているのです。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
当時、多羅は進士家の居城で、光秀の母(進士の妻)は明智家当主明智光綱の妹だったということです。
ところが当主に子どもがなかったため、光秀は養子として明智城にはいったというのです。
資料の信ぴょう性がいかほどのものかわかりませんが、
とてもおもしろいですね。
ますます多良に興味がわいてきました。
高木家の石垣に沿って降りてみました。
東高木家の屋敷跡方面から伊勢街道の一部へ
伊勢街道から東高木家跡を臨む
この石垣はおそらく多羅城が築かれた当時のもの
高木家の屋敷はたいそう広く、
宮の端まであったと聞いてビックリでした。
高木家の屋敷跡を1周石垣を合わせて記録しておくのも良いですね 今は見えませんが東高木家の屋敷の東側の法面にも石垣がありました
返信削除工事の時に記録を残しておきました
以下のURLに屋敷や石垣について記録してあります
http://www.midori-mizu.jp/midori_machi/takagi/higashi_takagi/higashi_takagi.html
takeさん、コメントありがとうございます。そうそう。東高木家の法面の石垣の話もされていましたよ。高木家の石垣は貴重ですよね。関一政時代からのものだとすると、戦国時代にできたのかもしれませんね。
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