さて、続いて、昨晩、上多良公民館で行われた歴史講演会のもようをお送りします。
講師の伊藤先生、6時に現地入りされ、スタッフと打ち合わせ。
上多良区の役員さん、誘導灯で来場者を誘導してくださいました。
車の台数も相当多かったと思いますが、おかげさまで何事もなく、駐車していただけました。
7時半近くなるにしたがって、続々と。
旧大垣市内や垂井町からの参加者もあり、約80名の方々が来場されました。
上多良区副区長の三輪哲也さん作の多良ガイドマップ拡大版と上多良区の地図。
とてもきれいで詳細にできており、わかりやすい地図です。
このほか、会場準備その他もすべて上多良区の役員さんによるもの。
ほんとうにありがとうございました。
島津軍が立ち去る時に置いて行ったという
茶釜と薬研
上石津では、初公開です。
立派なお華は、松岡貞夫さんがたてられたもの
花台にも注目
あいさつされる上多良区区長さんと司会の三輪哲也さん
三輪さんからはこの講演会をひらくに至った経緯といきさつ等について説明がありました。
講師のご紹介の後、伊藤先生、登場。
「天下分け目といわれる関ケ原の戦い」
実は豊臣の内輪もめだった!
関ヶ原合戦のおきた時代背景とそのいきさつについてとてもわかりやすく説明され、
遠路はるばる薩摩からやってきた島津軍がなぜ、西軍についたか。
→ほんとは東軍に味方するつもりできたのに、
伏見城を守る鳥居元忠から入城を拒否され、
西軍に味方することになったそう。
ちなみにこの時入城を拒否した鳥居元忠、実は家康の忠臣でした。
籠城の末、敵将に打ち取られることになりますが、
朱に染まった天井板は血天井と呼ばれ、京都の寺院などの天井板として今もその奮戦のすごさを
物語っています。
さらに話は続き、いよいよ上石津とのかかわりが明らかにされます。
敵中突破した島津軍は大きく二手に分かれ、一隊は養老山を越えて三重県方面から
上石津へ。
さらにもう一隊は勝路峠を越えて多良へ。
ここからはコメンテーターとして三輪重隆さんが登場。
伊藤先生とのやりとりの中で、じょじょに白拍子のヒミツが明らかに・・
日の丸をしょってたつ男、しげちゃん♫
56年間続いている鹿児島からの踏破隊のお話も登場。
こうしてみると、400年前から連綿と薩摩とのご縁は続いているのですね。
伊藤先生のお話、とてもわかりやすくてお話も上手だったと好評でした。
何より、下は小学生から上はお年寄りまで
女性の参加者も多く、
みなさん、とても興味をもって聞いておられたのが印象的でした。
終ってからもいくつか質問が出ました。
薬研の用途についてや多良にたどりついたとき、島津隊は何人ぐらいになっていたのかなど
皆さんの発言からもいろいろな方向にお話が広がりそうで、今後の可能性を感じました。
上多良区の皆様、また講師の伊藤先生、そしてご来場いただきました皆様、
ほんとうにありがとうございました。
これに先立ち、白拍子谷への案内板も設置していただきましたので、
ぜひ、お天気のよい日には散策してみてくださいね。
近日中に中日新聞に掲載されるようです。
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