このブログを検索

2013年8月29日木曜日

「関ケ原合戦」と「宝暦治水のつどい」と「舛屋伊兵衛顕彰祭」開催

こんばんは。
まだまだ暑い日差しが続いておりますが、空にはもううろこ雲。
秋ですねえ・・

昨日・今日・明日は東濃DAYです。
今日は土岐市のあるフレンチ懐石のお店を取材。
撮影終わった後の試食、おいしかった~!


さて、それでは先日行われた行事をご紹介しますね。

みなさんも、関ヶ原合戦の際、島津隊が敵中突破をして関ヶ原から上石津を通り、はるか薩摩まで戻ったというお話はご存知でしょう。
この時の大将は島津義弘。副大将は義弘の甥・島津豊久でした。
豊久は義弘を逃がすため、家老の阿多長寿院盛淳らとともに身を投げ打って犠牲となり、その命を散らしました。豊久の最期は牧田の烏頭坂という説もあり、また重傷の身で上多良まで逃げてきて腹を切ったという説もあり、よくわかっていませんが、故郷まで無事に戻ることができなかったというのは事実。上多良瑠璃光寺のそばにはカンリンヤブという場所があり、豊久の墓とされる島津塚が今も地元の人びとによって、大切に守られています。瑠璃光寺には豊久の位牌もあります。


薩摩と上石津のご縁はこれだけではありません。
江戸時代、薩摩から木曽三川の工事をするために薩摩藩士たちが美濃を訪れ、艱難辛苦の末にこの大工事を成し遂げ、家老の平田靭負はすべてが終わった後、役宅で自害しました。海津市平田町の平田は彼の名前を冠したものです。これはいわゆる宝暦治水と呼ばれるものなのですが、この工事を監督したのが水奉行であった多良の髙木三家でした。

この工事の際に、多くの薩摩藩士が理不尽な幕府の仕打ちに耐えかねて自害していますが、実は幕府方からも一人自害したものが出ています。それが西高木家の家来・内藤十左衛門
でした。
また、東髙木家の下人であった桝屋伊兵衛は工事の成功を念じて人柱となり、川にその身を沈めました。

こうした縁により、上石津と吹上町(現日置市)は2000年に、「友好のまち」を宣言。合併してからも
交流は続いています。日置市の吹上町永吉には豊久没後家臣たちが移り住み、永吉島津家を再興したと伝えられています。

今年は鹿児島から第32代当主・島津修久氏ら一行が来岐。また、先年、関ヶ原で「関ヶ原武将隊」の演出を行った、東京の劇団「シアターキューブリック」の演出家で劇作家の緑川憲仁氏と豊久も登場する「島津の疾風」(緑川憲仁作・演出)で主役を演じる大沼優記氏も松の木の本堂寺で行われた法要に参列。多くの薩摩藩士の遺徳をしのびながら、当時のことに思いをめぐらしていました。

緑川氏のブログはこちら
大沼氏のブログはこちら


牧田の瑠璃光寺にて。
ここには家老・阿多長寿院のお墓と石碑があります。
写真はそのことについて説明する田中市議

上多良の瑠璃光寺で豊久のお墓に参拝する鹿児島県から来られた皆さん

第32代当主の島津修久氏。
シルバーグレーのおぐしがとっても素敵な紳士です。

瑠璃光寺にある豊久着用の鎧の写真


松の木本堂寺にて行われた法要の様子
毎年、「舛屋伊兵衛顕彰祭」として行われています。

ごあいさつされる島津修久氏


祭文をよむ多良小6年の三輪はるき君となつきさん

           居並ぶゲストの方々 岐阜県副知事や大垣市長、また鹿児島からも参列者あり
           年の2倍ぐらいはおられました。


 
お二人は「シアターキューブリック」の演出家・緑川さん(左)と「島津の疾風」で主役を演じる大沼さん(右)

みなさん、上石津・多良はとても歴史に古い所。
いろいろな史跡やパワースポットなども点在しています。
多良に遊びに来てくださいね♪











0 件のコメント:

コメントを投稿