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2020年8月23日日曜日

湖北戦国セミナー 「明智光秀、最強のライバル羽柴秀吉」聴講しました

 こんばんは。

今日は地蔵盆ですが、コロナ感染拡大防止のためにどこも中止ですね。

淋しいことです。来年はぜひ、赤い提灯に灯が灯っているところをみたいものです。

さて、来週から「麒麟・・」が再スタートをきります。

今日はお隣滋賀県米原市にある「伊吹薬草の里文化センター」で行われた「湖北センゴクセミナー」を受講してきました。


第1講は聞き逃しましたが、今日は長浜市歴史遺産課にいらっしゃる学芸員で石田三成の研究家としても名高い太田浩司さんによる「明智光秀、最強のライバル羽柴秀吉」でした。太田さんには私が「中広」という会社で働いている時、石田三成についてお話を伺ったことがあります。

今日は「信長公記」(太田牛一による信長の伝記)はじめ光秀の手紙やさまざまな史料から読み解きながら、光秀、秀吉が信長家臣団の中で新参者にもかかわらず、大変優秀であったこと。ただし、かなり残虐なことをしたようです。光秀は叡山焼き討ちの首謀者であり、それにより坂本城などを賜りました。坂本城は琵琶湖に面した水城で安土城に次ぐ名城といわれていたようですが、現在はほとんどが宅地化され、ほぼなんにも残っていないそうです。

光秀は湖西、秀吉は湖北を任され、秀吉も浅井攻めでは光秀に劣らぬ残虐さでした。後に浅井長政の娘の茶々が淀君として秀吉の愛妾になったのは有名な話です。秀吉は長政の妻で信長の妹のお市の方を慕っていたといいますから、娘に母の面影を見たのでしょうか。

実際、信長の血筋は美男美女が多かったようです。

考えてみれば殺すか殺されるかの戦国時代ですから、勝とうと思えば残忍にならざるをえないのはあたりまえかもしれませんね。

ところである時を境に、信長配下としてしのぎを削っていた二人の立ち位置が微妙に変わり始めます。

それは信長の四国平定でした。

最初、信長は光秀とつながりのある長曾我部に四国を任せようとしましたが、途中で秀吉と手を組む三好一族に鞍替え。光秀は秀吉にお株を奪われた形となり、信長家臣団の中の自らの立ち位置に危機感を抱き始めます。折しも信長の天下統一はほぼ最終段階を迎えており、当時、毛利氏を頼っていた室町幕府最後の将軍である足利義昭はもともと光秀と親交があり、形勢逆転をはかるべく光秀に接近していました。

こうした覇権抗争の結果、追い詰められた光秀が突発的に信長を討つという行動に出たのではないかというのが、どうも最近の見解のようです。

さて、ドラマではどのようにそのあたりが描かれるのか、楽しみですね。

そして、麒麟は来るのでしょうか?


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