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2013年11月21日木曜日

これからは、良い意味での「お・せ・っ・か・い」の時代

「暮らしの手帖」という雑誌をご存知でしょうか?
 
昭和21年、名編集者とうたわれた故花森安治氏故大橋鎮子さんによって創刊された「スタイルブック」はのちに「美しい暮らしの手帖」と名を変え、昭和28年からは「暮らしの手帖」という名前になって半世紀以上の長きにわたり、現在も発刊されています。
 
花森氏は昭和63年に心筋後続のために急逝しましたが、その後鎮子さんは社長として、社主として、編集者として、妹さんや社員たちとともに頑張ってこられました。
図書館で「すてきなあなたに」という本をご覧になったことはないでしょうか?
鎮子さんはこの本の著者でもあります。
 
鎮子さんは90歳になってから自伝「『暮らしの手帖』とわたし」を出されました。
それによると、鎮子さんのお父さん武雄さんのご実家は上石津の時だということでした。
武雄さんは鎮子さんが10歳の時に亡くなり、鎮子さんはこの時、自分が母を妹たちを支えていかなければならないと決意をされたといいます。
 
鎮子さん自身も何度か時を訪れ、おとうさんも一時期、時で静養されていたことがあるそうです。
戦時中には東京にいる鎮子さん一家を心配した時の親戚からお米や野菜をいっぱいもらって、東京に帰りました。この時のことが忘れられないと鎮子さんは自伝の中で語っておられます。
 
私は偶然にも鎮子さんのお話を、今はお父さんの実家である冨田家の新家に住まいされている冨田修子さんという方にお聞きしました。それでどうしても鎮子さんのお話をうかがいたくて、おうちにおしかけて話を聞いてきました。その一端を岐阜新聞の「風暦」に書かせていただきました。
 
昨日の岐阜新聞文化欄に掲載されましたので、ぜひ、お読みいただけると嬉しいです。
 
 
 
鎮子さんという方は自他ともに認める、大変世話好きな方であったようです。
それも、ご自身の早くにお父様を亡くされたというつらい体験からきているのではないでしょうか?
その時にいろいろな人たちに親切にされ、もちろん辛いこともたくさんあったと思うのですが、
時には見ず知らずの人も友だちや親戚同様に接することがあったというのは、
古き良き日本人がもっていた「おせっかい」のDNAだったような気がします。
戦後の上石津にはまだそのおせっかいさんがたくさんいたことと思います。
 
暮らしの手帖では何度か上石津をとりあげています。
その最初は28号の「ある日本人の暮らし」というものであったらしいのですが、
残念ながら私はその号を持っていません。
98号には亡き桑原町長時代の上石津の記事が掲載されています。
 
新聞の写真はこのときの取材時に花森氏らが泊まったという冨田家の離れの庭で撮影させていただいたものです。
 
今の日本にとって必要なものは
お・も・て・な・しとともに
良い意味での
お・せ・っ・か・い
ではないでしょうか。
 
自分だけでなく、人に関心をもつこと
人が困っていたら、まず「どうしたの?」と聞いてあげる
それってあたりまえのようでなかなかできないことだと思います。
 
そんなことを感じてもらえたら嬉しいです。
 
さて、
多良峡のもみじです
24日のもみじ祭りの紹介 
現在大垣ケーブルテレビ市民掲示板で放送中
22日のNHK岐阜お昼の「みのひだ情報局」夕方「ほっとイブニングぎふ」の週末イベント情報コーナー
22日15:00~ 岐阜FM GFカンパニーで紹介される予定です

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