江戸時代、多良を高木三家が治めていたお話は前にしました。
さて、高木家は普請に長けていたと見え、二条城などの築城にも関わっていたようなのですが、その腕を買われたのか、木曽三川をはじめとする美濃の川の水行奉行を務めていました。
この辺りで江戸時代最大の治水工事と言えば、宝暦治水。
幕府からお手伝い普請を命じられた薩摩藩の侍たちは遠く離れた美濃にやってきて、水害のひどかった木曽三川の工事を行ったのでしたが、幕府の度重なる妨害行為等に業を煮やした薩摩藩士たちは耐え切れずに切腹。
それでもなんとか工事をやり終え、すべての事後処理を行った後で、総責任者の平田靭負(ゆきえ]は切腹して果てたのでした。
宝暦治水の舞台となった海津市平田町が平田靭負の名前に由来している所は広く知られていますが、尊い犠牲を払った彼らは「薩摩義士」と呼ばれ、その功績は涙と共に長く後世に語り伝えらています。
ですが、実は犠牲者は薩摩ばかりでなく、幕府側にも出ていたのでした。それは水行奉行を務めた髙木家の家臣たちだったのです。
その一人が内藤十左衛門。彼は巣南の出身でその親戚は甲州(現在の山梨県)に多く居住していたことから、甲州流の治水技術を持っていたと考えられ、責任者の西高木家当主高木新兵衛に宝暦治水工事のために雇い入れられた優秀な人物でした。
ところが十左衛門は工事が始まってまもない宝暦4年4月21日、宿舎で切腹して果ててしまいます。その理由は工事を手伝っていた庄屋と折が悪く、彼が十左衛門のいうことを聞かず、工事がうまくいかないところが出てきたため、主の髙木家に申し訳なく思ったからというのが定説になっているようです。詳しくはこちらを
内藤十左衛門は幕府側唯一の切腹による死者でした。幕府は薩摩藩の勢力をそぐために、庄屋や百姓たちに薩摩藩には協力しないよう、申し渡していたのでした。
ところが幕府側にはもう一人、工事で命を落としたものがいます。それが舛屋伊兵衛です。
伊兵衛は東髙木家の当主・高木内膳の家来で、江戸にある東髙木家の屋敷近くに住んでいました、工事が始まると正式に東髙木家の家来になり、美濃に下ります。
伊平衛は宝暦治水中、最難関とされた大槫川の工事が始まる際に人柱となって、荒れ狂う川に身を投げたのです。
今日はその伊平衛の遺徳をしのんで行われている法要でした。
鹿児島県出身だという岐阜県副知事さんはじめ多くの来賓が列席、多良小学校の三谷かいと君が祭文を読み上げ、伊兵衛の偉業をこれからも語り継いでいきたいと結びました。
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