今日は土用丑ですね。
うだるような暑さのなか、みなさまいかがお過ごしでしたでしょうか?
土用丑といえば、う・な・ぎ(鰻)ですね。
昨今のシラスウナギの高騰でここ数年、たいへんお高いものになってしまった鰻。
なかなかなずなの口には入りません(^_^;)
ところでこの土用丑に鰻という習慣が広まったのは江戸時代のようで、ご存知の方もあるかもしれませんが、発明家の平賀源内が知り合いの鰻屋に頼まれて「本日土用の丑の日」と張り紙をしたら、これが大ヒットしたというお話があります。
まあとにかく、古来、鰻は精のつくものとして好んで食べられていたようですね。
土用とかバレンタインとかハロウィンとかクリスマスとか、そのてのものにはあまり頓着しないうちの家族ですが、今年は鰻が食べたくて、長浜まで買いに行って来ました。
長浜の「魚三」さん、予約しないでいったら、もう大変な人。
でも、そんなに待たされることもなく、購入できました。
ここは、料理雑誌でも取材されるほどの店で、川魚がとても美味しいです。
冬場は鴨鍋の具材も販売してますよ。
さて、前置きが長くなりました。
この7月末~8月にかけて、鹿児島の日置市から「島津踏破隊」が上石津を訪れます。
鹿児島(薩摩藩)と岐阜の縁は、江戸中期の「宝暦治水」を思い浮かべる方も多いと思いますが、実はそれより100年以上前の関ヶ原の戦いの際、西軍の島津惟新こと島津義弘は退却する際、普通なら後退するのに、前進。敵中突破していったというのは有名な話。俗に島津の退き口といわれています。
このとき、まさに捨て身で主君を逃がしたのが、家老の阿多長寿院と義弘のおい・島津豊久でした。
阿多長寿院は牧田上野で討死。
豊久もそのようにいわれていますが、実は異説がありまして、瀕死の重傷を負いながら上多良まで逃れてきた豊久は、村人に落ち武者狩りの嫌疑がかかるのを恐れて同地内の白拍子谷(しらべしだに)で自刃したともいわれており、その墓所が瑠璃光寺の隣のカンリン藪の中に設けられており、鹿児島から毎年参拝にこられているのです。
この件につきました。広報部メンバーで踏破隊のお世話をされているMさんより、昨年の資料をいただきましたので、写真と共にご紹介したいと思います。
タイトルは「チェスト行け関ケ原」です。少し切れていてすみません。
なんと昭和35年から続いている伝統の行事なんです。
今年で第57回目ですね。
今年はなずなも初めて拝見できるので、とても楽しみにしています。
こうして鹿児島の方ともご縁が続いているのと言うのはとても不思議なことですね。
歴女・歴男のみなさま
ぜひ、古戦場めぐりをされたら上石津にもお立ち寄りくださいね。
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