日本の原風景 レンゲ田

日本の原風景 レンゲ田

2017年6月15日木曜日

公民館の歴史講座で一之瀬めぐり

今日は元大垣市郷土館長で牧田にお住いの谷口隆康先生に、一之瀬地区をめぐりながら、その歴史を教えていただきました。
谷口先生は以前一之瀬小学校の校長をされており、その時にご自分で一之瀬についていろいろ勉強されたそうで、その時の資料を元に現地をめぐって案内していただきました。

まずは、一之瀬支所に集合して今日の講座についての説明を受けた後、
紅葉で知られる多良峡の北の玄関口、長彦神社へ。


社伝によれば長彦神社の創建は675年と伝えられ、これは上石津では最も古いのだそう。
祭神は大和の国平群郡立野に祀られている龍田の風神。
勧請したのは時の朝廷の有力者の一人であった佐伯連廣足(さえきのむらじひろたり)。
どうして大和朝廷の高級官僚が関わったのかについては、当時一之瀬のあたりは近江の国の有力氏族であった息長氏の勢力下にあり、軍事上の拠点になっていたからではないかと先生は指摘されます。
人はおそらくそんなに住んではいなかっただろうが、洪水で知られた牧田川の屈曲点に位置することから、暴風雨を鎮める大切な役割を担う場所として、
それを鎮める神さまを祀ったのではないかということでした。




ここから上石津中学校のPへ移動。
この辺りの田んぼは辰田とよばれ、風神をまつる長彦神社との関連性から考えても、
奈良の龍田神社のある立野という地名から名前をもらったのではないかと推測され、
一之瀬で最も早く開墾された場所ではなかったかとされます。

また今回は天喜寺には行きませんでしたが、その創建についても触れられ、その創立に天台座主や源頼義など中央の有力者が関わっているとされることから、一般の天台・真言のいわゆる道場とされるところとは、明らかに趣きを異にするものと考えられるそうです。

今日はさらにここから徒歩で、国の重要文化財である桑原家の見える所まで移動。
桑原家の歴史について説明を受けました。

桑原家では石河(いしこ)氏(ウィキペディアでは美濃石川氏となっていますが、そのことだと思います)の子どもを預かっており、後にその子は1万石の大名になったそうです。

石河(いしこ)氏の奥方は絶世の美女で後に徳川家康の側室になり、尾張徳川家の初代を生んだそうです。


おもしろいのは、川西の桑原家だけではなく、
殿垣外(とのがいと)にも桑原家があったこと。
二つの桑原家にはつながりはないそうですが、
歴史では両方の桑原家が混同されてその歴史が伝えられていると
先生は指摘されます。

言い伝えによれば、1564年、美濃の守護大名であった土岐氏の二男
桑原治右衛門が家人6名を連れて一之瀬に移住してきたとのこと。
この濠のあとらしきものが桑原家の屋敷のそばに残っており、
その辺の地名をジョンナ(城南)というそうで、殿垣外(とのがいと)の
八幡神社はこの桑原氏が勧請したとされるのだそう。
謎の多い、殿垣外の桑原家です。




これから殿垣外の山側の道を通り、昔和田橋のかかっていた場所へ。
往時の街道の成り立ちについての説明を受けました。

一之瀬という場所が、街道筋で重要な拠点であったことは間違いないようです。


先生の説明のすべてをなかなかきちんと伝えられなくて申し訳ありませんが、次回は
7月13日、9時~
牧田の二又地区を中心にめぐります。
古墳にコ~フン
(すみません。どなたかの受け売りですが(^_^;))
なんちゃって!

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