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2015年8月8日土曜日

史跡西高木家陣屋跡関連企画展

こんばんは。

今日は先日立ち上がった「多良地区保全会」の農村の多面的事業に関する説明会が上鍛冶屋公民館で行われました。
主人が都合が悪かったので、私が出席しました。
上鍛冶屋地区では地区全体でこの事業に取り組もうという話になったのですが、まだまだ事業に対する不明点が多く、多くの質問が出されていました。

奥では鍛冶屋川のホタル再生計画が行われるもようです。

せっかくの機会ですので、多良を未来に残すための保全活動として、オリジナリティのあるユニークな活動がいろいろ出て来ると楽しいですね。


さて、「大垣市上石津郷土資料館」では、西高木家陣屋跡の石垣修復に関する様子が
詳細に記されている企画展が始まっています。


西高木家陣屋跡に残る石垣はたいへんすばらしく、価値の高いものです。

ぜひ、この機会に足を運ばれてはいかがでしょうか?





福島県 二本松市レポート

こんばんは。

数日ぶりの更新です。

今日も暑かった~!

名古屋と岐阜から来てくれたライター仲間と緑の村公園でBBQ。
そのあと、島津塚、西高木家陣屋跡、多良峡にお連れしましたが、多良峡の清流がことのほか気に入ってもらったようで、しばし、静かな時間を過ごしました。

さて、先日、ご紹介しました関ケ原戦跡踏破隊の記事ですが、踏破隊に参加されたお子さんの親さんにも読んでいただけたようで、とっても嬉しいコメントをいただきました。

私がご紹介できるのは踏破隊のみなさんのほんの一部の行程に過ぎないのですが、喜んでいただけて嬉しいです。踏破隊の皆さん、来年もお待ちしていますよ。

さて、先日もご紹介したように、福島からやってきた子どもたちを送って福島に行って来ました。新幹線から降りるときは、みんなと別れがたくて泣いている子もいましたが、駅に着いたら親さんが迎えにきておられ、みんな元気に帰って行きました。

実は福島県は多良とは不思議なご縁があります。
高木家入郷前に多良の地を治めていた関一政が移封されたところが福島県白河市の小峰城だったのです。会津の蒲生氏郷についての入郷でした。

白河には行けませんでしたが、今年は二本松市に行って来ました。
二本松にも城跡があり、その城壁はとても立派。
石垣の残る城という事で、高木家の整備にも通じるところがあるのではないかと感じました。
ただ大変広くて、高低差がすごい。
平城ではなく、りっぱな山城でした。でも、本丸からの景観はすばらしかったです。
では、写真をどうぞ。


まずは二本松市の庁舎で観光パンフレットをゲット。


二本松城跡にある高村智恵子の家にあった藤の木。
高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子の生家があるのが二本松だったんです。






城跡から見える安達太良山。
曇ってしまって、残念ながらほとんど見えず・・


智恵子抄の詩碑


あちこちに残る巨大な石垣


本丸です。


下の細かい石の部分が城跡に残る最古の石垣
穴太(あのう)積みと呼ばれる
蒲生の治めていた近江から石垣づくりに長けた穴太衆を呼び寄せたらしい


智恵子の生家。
昭和4年に生家の酒屋がつぶれたことが、繊細な智恵子の精神にかなりのショックを与えたよう
隣りの記念館には現存する数少ない智恵子の油絵やデッサンのほか、切り絵のレプリカも展示されていました。


帰りの岐阜羽島駅はまっかな夕焼けでした。


2015年8月5日水曜日

盆踊り練習 2日目

おはようございます。
今日も朝からギンギンですね。

さて、夕べの盆踊りの練習、男性も含め、たくさんの方が来て下さいました。


子どもたちもおかあさんと一緒に来てくれましたよ。
少しはにかみながら踊っている様子がとてもかわいかったです♪

みんなすぐに上達して、上手に踊れるようになりました。




次回は11日。

盆踊り当日のタイムスケジュールは以下のとおりです



練習はもちろん、当日も多良地区以外の方の参加も大歓迎!
たくさんのご参加をお待ちしております。




2015年8月4日火曜日

「青空はたけ塾」新聞に掲載

おはようございます。
今朝も畑に行って来ました。
おかげさまで、きゅうりがわんさか、ナスもトマトもシシトウも豊作です。
綿の花が咲き始めました。
オクラの花のような、とても可憐な花です。
また今度、写真撮ってきますね。

さて、今朝の中日新聞に、「青空はたけ塾」の記事が掲載されました。
取材当日は途中から雨が降ってきて、みなさんびしょ濡れに。
記者さんもびしょ濡れになられたそうです。
そんななか、記事をまとめ上げて下さった記者の平井さんにあらためて感謝いたします。

農村の多面的事業も始まりました。
上鍛冶屋自治会では8日にJAの支店長さんに来ていただき、説明会が行われます。
上鍛冶屋は自治会として、この事業に参加することになりました。

せっかく作物をつくっても猿や鹿、猪にやられて泣き寝入りせざるを得ない、今の現状。
獣害対策にはたいへんお金がかかりますが、そのあたりは大垣市にももっと理解と関心をもっていただき、少しでも地域の方々のやる気になればと思います。

畑で自分がつくった野菜を食べられるということは、海で漁師さんが魚を獲って来られるのと同じで、すばらしいこと!
現代にあっては、最高のぜいたくの一つといえるのかもしれませんね。

2015年8月3日月曜日

島津隊異聞 一之瀬の「しちなんさん」

こんばんは。

島津踏破隊の件をご紹介したことで、思いがけなく一之瀬にお住いの真壁さんからとても興味深いメールをいただきました。

一之瀬の川東自治会のHPでも紹介されていますが、近年まで、一之瀬には「しちなんさん」と呼ばれる塚があったそうです。
どうやら関ヶ原の戦いで落ち延びてきた島津隊の死者の墓らしいのですが、この「しちなんさん」について、真壁さんは自身の調査に基づいた、とても科学的な考察をされています。

「しちなんさん伝承を考える」
関ケ原合戦における無名武士の足跡

ぜひ、お読みいただければと思います。

関ヶ原の戦いで戦った武士たちの足跡は、上石津のいろいろな場所に残っています。

盆踊り練習日のご案内

こんばんは。
今日も暑かった~!
昨日は全国各地でヒョウが降ったらしいですね。
真夏にヒョウ・・ウヒョ~!(^_^;)(^_^;)

とにかく、天候も政治もなんかちょっとおかしい今年の日本です。

さて、明日4日と11日は盆踊りの練習があります。

盆踊りっっていつから踊るようになったんですかね~?
こういうときは、苦しい時のウィキペディア頼み。
盆踊りの起源とは


盆踊りが文献に現れるのは室町時代だそうで、その起源は諸説いろいろ。
でも、いろいろなものをまとめてそこからオリジナルを作り出すのがうまい日本人のこと、どれも少しずつほんとなんだと思います。

特に江戸時代にはどこでも盛んに行われていたようですね。

多良のお隣、時の時山地区は知る人ぞ知る、平家や源氏の落人が隠れ住んだと言われています。ここでは今も9月に時山祭りというお祭りが地元の人々の手によって行われており、すばらしい手筒花火が見られます。


この時山で時山音頭が踊られるようになったのは、後から入ってきた落人と村の人たちの融和をはかるためであったといわれています。
確かにみんなで輪になって踊っていると、気持ちが一つになったような感じがします。
郡上踊りに毎年何万人もの人々が詰めかけるのは、
こうした一体感・臨場感をみんなが知らず知らずのうちに求めているのかもしれませんね。

一度も踊ったことがなくても、みんなの踊りを見てみよう見まねで踊っていると
なんとなく踊れてしまうから不思議。

ショーのような派手さはなくとも、
わずかな時間でも、みんなで踊れる楽しさを味わってみましょう。

1人でも多くの方のお越しをお待ちしています。
本番は8月14日。
雨が降ってもありますよ~!





2015年8月2日日曜日

薩摩の命、薩摩の心を伝える「第56回関ケ原戦跡踏破隊」

こんばんは。
ほんっとに熱いですね(^_^;)
みなさま、熱中症にお気をつけくださいね。

今日は美化day。朝から地区住民総出でで、自治会内の清掃や草刈りをしました。
すでに先週終わられた所もあると聞いております。
終わってから、防災訓練でタンカの使用方法、簡易トイレの設置についての講習会がありました。

その後、畑に行って綿の写真を撮ってきました。
この炎天下、畑の野菜ちゃんたちは元気に育っておりますよ。

うちの綿もこんなになりました。土壌が合わなかったのか、数本しか育ちませんでしたが、元気に育っている綿はいずれ、花をつけ、綿の実がなることでしょう。その時が楽しみです。


さて、それでは鹿児島からやってきた「第56回 関ケ原戦跡踏破隊」の皆さんのレポです。

第56回という回数が示す通り、今年で56回目になるという踏破隊は昭和35年から毎年夏休みに行われている伝統行事です。
前にもお話しましたが、関ケ原の戦いで西軍として戦った島津軍は、
敵に後ろを見せるのは武士の恥として、敵中を突破。
多くの犠牲を払いながら、たいへんな苦難を乗り越え、大阪にたどり着き、
海路、薩摩へと向かいました。

この時、関ケ原から多良を通り、西山から五僧保月の集落を越えて多賀へ出て、西国へ向かったと伝えられています。

この踏破隊はそうした先祖の苦難を忘れず、
自らも先祖がたどったコースを歩くことで心身を鍛え、
また、旅先で多くの人々と出会ったり、
いろいろな体験をすることで見聞を広め、
より広い視野を養うことを目的としています。

踏破隊と多良のご縁は、
上多良の瑠璃光寺に島津豊久の位牌があること、
すぐ近くに島津塚と呼ばれるお墓があり、
島津豊久の墓と伝えられていることからです。

豊久が戦死して、島津の家中ではなんとかして豊久の
お墓の場所を知りたいと長年にわたり、
八方手を尽くして探しましたが、
関ケ原から牧田に至る烏頭坂で戦死ししたと伝えられるのみで
お墓の在り処はようとして知れませんでした。
ところが、関ケ原から200年ほどたったある時、
多良の島津塚の話が家中の耳に入ったのです。
くわしい顛末はこちらを

現在も一月に一度ぐらい、豊久のお墓を訪ねて若い人が来られるとのことです。

なにせ、テレビもカメラも携帯電話もなかった昔の事、
今となっては伝承の真偽も確かめるすべはありませんが、
島津塚という以上、島津ゆかりのだれかが眠っているには違いないでしょう。

さて、今回、踏破隊に参加したのは妙円寺小と伊集院小、伊集院北小の5.6年生15名の子どもたち。
そして、日置市副市長の平田敏文さん、元県議会議員の岩崎昌弘さんはじめ、6名の指導者のみなさん。
5、6年生の中には今年で2回目という子どもたちが5名、指導者の中には今年で24回目という方もいらっしゃいました。

7月29日に伊集院駅前に集合した一行はお昼すこし過ぎに関ケ原に到着し、古戦場めぐり。
翌日は烏頭坂の豊久の墓、牧田の琳光寺の阿多長寿院の墓に詣でた後、
薩摩義士の墓参りに養老町から木曽三川方面へ。

31日には南濃町の駒野越え。
田辺・川原を経て、
時の下山から「緑の村公園」の奥養老へ。

そして、8月1日は7時40分に奥養老を出発。
島津塚へと向かいました。

なずなもSさんと共にお供させていただきましたよ。


奥養老前で。
炎天下、さすがに三日目となるとやや疲れも見えましたが、
「いってらっしゃ~い」の声に見送られて
島津塚めざして元気に出発しました。
そろいの菅笠に、赤い陣羽織がカッコいい!

何度も来られている指導者の方は、j陣羽織にも年季が入ってます。
しかも、みなさん、大変なハイスピード。
わたしとSさん、ついていくのが大変でした。



          約30分後、島津塚に到着。
上多良区の役員さん、上石津地域事務所の所長さん、課長さんたちが出迎えてくださいました。



               ご住職の読経を聴きながらお参り。
               私たちもお線香をあげさせていただきました。


               祭文を読む伊集院北小5年生の前鶴航希君。

               薩摩の命を伝え、薩摩の心を伝えるというところに、
               踏破隊の熱い思いが込められていました。



杉林の中にひっそりと立つ「島津豊久公顕彰碑」


瑠璃光寺本堂にて。

祭文を読む伊集院小6年生の北迫彩生奈さんは二回目の踏破隊参加。

丸に十字の島津家の紋。
インパクトありますね。



      

       一緒に来ておられた日置市職員の平田さんによれば、この踏破隊は旅行ではなく、
       研修ですからと来る前に参加者にきちんと説明するとのこと。
       歩く道すがらも礼節にはとても厳しく、ふだんの生活では見過ごしてしまいそうな
       ことも、しっかりと注意を受けます。
       祭文はパソコンに入っている元データを読む子が1人ひとり書いて写すそうです。
       書き写すことで、その内容を正しくしっかりと理解するようにということでしょう。

       この踏破隊については、市からの助成のほか、企業等からの浄財でまかなっている
       のだそう。

        踏破隊に参加すると、名前が関ケ原にある石碑に彫られます。
        それも大きな名誉の一つ。

       今回やってきた子どもたちの保護者のみなさんや祖父母の方も、
       同じく踏破隊で来られたことがあるのかもしれませんね。

       「踏破隊は私の生きがいです」とおっしゃっていた平田さんの言葉が印象的でした。

        中央の赤い陣羽織の方は、日置市副市長の小園さんです。
       
       



瑠璃光寺でお茶をいただき、一休みした踏破隊一行は、
薩摩の誇りと気概を胸に
西山から時山、五僧保月めざして多賀ふれあいの里をめざし、元気に旅立って行きました。

2日に大阪城を見学して帰路に着きました。

踏破隊の皆さん、短い時間でしたが、熱い感動をありがとうございました。
また、来年も元気で多良に来て下さい。

お待ちしてますよ~♪