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2019年7月6日土曜日

多良に眠る中世の古城が目を覚ます 中井均先生による、山城跡調査報告会 開催

今日は上石津地域事務所の2Fで、2月に滋賀県立大学の中井均先生によって調査された多良地区の馬瀬と羽ヶ原にまたがる山城跡の調査報告会が開催されました。

多良でお城というと、今はもっぱら明智光秀が生まれたとされる多羅城なんですが、先生が初めて多羅城の名前を聞かれたのは20年以上前の1996年だといいます。
この時、上原の地域事務所裏にある城山を調査されましたが、残念ながらこの時は何も発見できなかったそうです。
実は私、この話を今は亡き郷土史家の辻下栄一さんから聞いたことがあります。
ただ調査されたのが中井先生とは知りませんでした。

その後、先生も多羅城のことは忘れておられたのですが、大垣市の教育委員会におられる職員の方からあらためて依頼があり、再び多良に来られました。

2月に調査されたのは次の三か所。
・城ヶ平(馬瀬・宮)
・城屋敷(上多良 ※島津豊久自刃の地とされる白拍子谷のすぐそば)
・時の城山(時地区 下山)
このうち、城屋敷と時の城山では城郭跡は発見されませんでした。

先生が言われるには、城山という地名のところにはかつて城があった可能性があるということでした。ただし、城山(じょうやま)=上山の可能性もあるとのこと。城屋敷はだれかの屋敷跡かもしれないが、戦国時代ではなく、近世(江戸以降)のものではないかということでした。

(先生のメモより)
城ヶ平の遺構については「多良めぐりききあるき」(山口一易著)の中で「・城山 城か砦があった跡らしい」と記されており、簡単な見取り図も掲載されていた。今回はそれを立証することができた。

城跡は中谷川と北側の谷川に挟まれた東西に伸びる段丘の東端部に立地している。方形単郭の構造で、南北約70m、東西約65mを測る。曲輪の周囲には分厚い土塁の基底部が南辺を除いて残されている。
尾根が続く西方には遮断する堀切(ほりきり)が設けられていたと考えられるが、近年の畑開発に伴い、埋められてしまっている。北端にかろうじてその痕跡が認められる。北面は急斜面のとなり、自然の切岸(きりぎし)としている。東面は中腹に横堀を巡らし、中央部に虎口(こぐち)を構える。南面は中腹に横堀をめぐらせている。
東辺中央に構えられた虎口は山麓より斜めに登る城道もよく残されている。方形に窪んだ虎口は桝形であったことを示している。また、虎口南側には方形の土壇があり、櫓台であったと見られる。
曲輪内には井戸らしき窪地が4か所認められるが、これらは城跡に伴うものか、近世以後の畑地に伴うものかは不明である。
「上石津地誌地名考多良地区」によると、「この地(城が平の高くなった部分)を城山(しろやま)といい、石積みの跡らしきものや古井戸があり、西髙木家の屋敷はこの城山のヒノキで建築された」と記されている。
「多良根源記」には「太賀陣内仁蔵(大垣藩がこの地を支配していた時の役人)が、馬瀬村城ヶ平に住んでいた」と記されている。
「多良めぐりききあるき」には「城山 城か砦があったらしい」「城平―城山ー砦のあと、大正3年の耕地整理のとき、馬屋の柱や刀が発された」

先生が書かれた城跡の縄張り図(見取り図)です。

また、先生からは「城とはどんなものか」というお話もありました。
一般的に私たちはお城というと、壮大な天守閣を想像しますが、戦国時代には天守閣などは存在しません。
また、石垣が見られることもまれだそうです。

城の概念が変わったのは、天正4年に織田信長が安土城を建てた時。
これによって、城は戦うためのものから権力のシンボル、世の中に自分の力を知らしめるためのものへと変化したのです。

堀切や切岸、虎口といった典型的な戦国時代の山城の遺構を残す城ヶ平の城跡は、これ以前のものということになります。おそらく、掘立小屋のようなものが平らなところにいくつか建っていたのではないかということでした。

先生によれば
築城年代・・・戦国時代の後半と考えられるが、詳細な築城年代は不明。
築城主体・・不明
城主名が伝わっていないことから、いわゆる陣城(戦のために緊急的につくられた城)の可能性もある。
明智光秀との関係は慎重に扱うべき。多羅城との関係も不明。
とのことでした。

しかし、全国に3万~4万存在する貴重な城跡の一つであること。
おおいに地域としてPRし、保存に努めることで街づくりの要になりうるのではないかとのことでした。

先生の調査のおかげで、多良に眠る中世の古城が目を覚ましつつあります。


このあと、多良歴史プロジェクトメンバーによる、看板製作、設置、ノベルティとして缶バッジ制作、Tシャツ制作、多良歴史マップの制作について話し合いが行われました。






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