今年の盆踊りも残念ながら中止です。
キッチンカーがくるかなと思ってたんですが・・
さて、書いた記事が和樂webというサイトで公開されました。
和樂webは小学館により運営されており、「日本文化の入り口マガジン」というタイトルがついています。
戦国武将に興味のある方、よろしければどうぞ。
どなたにでも無料で読んでいただけるサイトです。
なに?やっちまったなぁ!酔って上皇に射かけた婆娑羅大名・土岐頼遠と土岐氏が歩んだ道とは?
どの記事のタイトルも、すべて編集長のセバスチャン高木氏につけていただいております。
ほかにもおもしろい日本の文化や歴史に関する記事がいっぱいですよ。
「和樂web」はどなたでも無料で自由に読んでいただけるサイトです。
美濃の守護大名と言えば土岐氏。頼芸の代に斎藤道三に追い出されて、以後勢力を取り戻すことは叶わなかったのですが、室町時代初期、南北朝時代には足利尊氏からも信頼され、一時的に東海三県の守護になったこともあります。
東濃中心で一族であったとされる明智光秀もその出生地は東濃方面が圧倒的に多いのですが、実は西美濃には土岐氏ゆかりのお寺がいくつかあります。
土岐氏の軍勢は土岐桔梗一揆と呼ばれ、一致団結した強さで知られました。
土岐氏二代目の頼遠はその強さでも婆娑羅ぶりでも知られ、西美濃の青野ヶ原(今の大垣市青墓の辺り)の戦いで大活躍。
敗れはしましたが、南朝にかなりの打撃を与えてこれが後々北朝型の勝利をもたらしたとも言われています。
ところでこの頼遠、大変強くて武将たちからもなかなか人気があったようなんですが、婆娑羅ぶりが行き過ぎてある事件を起こし、罪人として処刑されてしまいます。
その後も土岐氏は続いていくわけですが、それにはそれまでの土岐氏の活躍ぶりが評価されてのことでした。
歴史の表では取り上げれらることの少ない土岐頼遠を中心に書いてみました。
資料を読んで土岐氏のことをもう少し見直さなくちゃと思った私です。
それにしても南北朝時代って凄かったんだなあ。
キャッチ画像は瑞巌寺様からいただきました。頼遠の肖像はないので、頼清さんの肖像です。
土岐氏の歴史を勉強すると、多羅に光秀が生まれたって不思議はないわなあという気がしてきます。
それにしてもお隣の時って、土岐氏と関係があったのかなあ。
だれか調べてくれませんかね?
私の母の在所の川原には土岐氏の奥方のお墓があるので、ここまで勢力が及んでいたという証だと思うのですが。
0 件のコメント:
コメントを投稿